crimson

 ジルがくれた贈り物

 静かに岸に押し寄せる細波。
 風に吹かれて草がゆれる。
 岬の先にぽつりと一本だけそびえるリンゴの木の下にエルミーはいた。彼女は岬の先に座り、自然の音に耳を傾けていた。
 そう・・・
 細波の音や、草の音。その他にもある。
 風の音、雲が流れる音、リンゴの木の葉がこすれあう音。
 自然界のいかなるものにも、自然的に音は発せられる。音は地球が生まれた時・・・いや、宇宙が誕生した時から生まれていたのだ。
 過去に、生涯を音の研究に費やした科学者がいた。名をなんといっただろう。・・・ゼルアス?
 そんな事はどうでもいい。
 彼はこう考えた。
 『音というものは、常に存在し得るもの。物理的な音だけではこれは証明できない。化学的な音も加えなければこれは特に意味のない文字の羅列。
 たとえ、清閑な空間にいたとしても・・・静かだと感じていても・・・音はそこにあるのだ。人間の耳にはちゃんと聞き取れている。いや、こういう静かな場所だからこそ聞き取れるといった方がいいだろうか。それは、かすかな空気の動き、光の屈折、空間を伝わる音波・・・高圧振動細音波の音。俗に超音波ともいう。
 「音こそ、常に存在しうるもの・・・。」 音が消滅した空間には真の恐怖が生まれる。』

 エルミーは一生懸命聞き耳をたてていた。深く集中し、瞑想しながら・・・。
「だ・・・メ、ダ。」
 彼女は静かに呟いた。そして、リンゴの木を手かせにしてゆっくりと立ち上がった。
「キョ・・・うモ・・・ダめ・・・、ウッ・・・。」
 彼女の耳には一つ悩みの種があった。
「キコエナイ。」
 彼女の耳は難聴を通り越して、音が全く聞こえなくなっていたのだ。  波が打ち寄せる音も、草の音も、風の音も。彼女の感覚では音もなくそのような現象が起こっていると感じているのだ。ただ単に、波が打ち寄せ、音もなく風の感触が頬をなで、勝手に草が揺れていた。幼いエルミーにとっては残酷すぎる仕打ちだった。  エルミーの耳が聞こえなくなったのは1年前。なので、言葉を声に出すことはできるが、自分には聞こえていない。自分では言いたいことを言っているつもりなのだが、全く違うことを言ってしまうこともありうる。自分が正しいことを言っていることを自分の耳を使って確かめることも出来ないのだ。
 音が消滅した空間・・・。ゼルアスのレポートにある、あの真の恐怖をエルミーはもう1年も味わい続けている。最初は怖かったが、もう慣れてしまっていた。
 だが、彼女は希望を捨てたわけではなかった。
 いつもこの時間帯はこの岬に来て、自然の音に耳を傾けているのだ。・・・耳が聞こえるようになる事を信じて・・・。
 耳が聞こえなくなったのは原因がある。無論、エルミーもその原因を知っていた。だが、思い出すのを防ぐため、エルミーの心の奥底に封印してある。
 ここは、彼女に代わって私が説明しよう。
 リンゴの木の丁度手前に十字架がたてられてあった。今は草が茂っているので見えにくいが、十字架の下の方にこう彫られてある。
『愛猫、ジル。   永久に眠る。』
 エルミー宅ではかつて猫が飼われていた。そこには母親とエルミー、お婆さんが住んでいた。父親は、エルミーの耳を治せるという薬を求めてもう1年間帰ってきていない。今、生きているのかどうかもわからなかった。
 ある日のこと。3人はおじいさんの家に行く事になった。だが、エルミーは咎めた。エルミーはジルの事が心配だった。
「ジルはどうするの?」
「そうねぇ。あの長旅に連れて行くわけにもいけないでしょう。」
 母親は口元に手をあて、顔をしかめた。
「エルミー、ジルは元々野生の身。3日くらいは無事にいてくれるはずよ。家畜の餌箱のとなりにジルの分も餌を置いておくから。心配はないよ。」
 お婆さんは優しくエルミーに言い寄った。
 ようやく、エルミーも納得しておじいさんの家に行くことを決意した。
「ジル、いい子にしててね。すぐ帰ってくるから。」
 その決断が悪夢への第一歩だった。
「ニャー。」
 母親は、家畜小屋から馬を従え、馬車にくくりつけた。これから6時間馬車の旅になる。

3日後・・・

 馬車で一直線の道を走っていた。あの曲がり角を曲がったところがエルミー宅だった。
 エルミーは馬車を降りて走って家に向かいたいと思って落ち着きがなかった。
 ようやく馬車は長い一直線の道の終端にたどり着き、家が近くなってきた。そして、徐々に家が見えてきて・・・その時!
 誰もが度肝をぬかれた。
 とんでもない情景が目の前にあったのだ。
 野犬よけの柵はほとんどへし折られ、バキバキに破壊されていた。家の前の畑は荒らされ、家畜小屋はぼろぼろ。
『野犬』
 という言葉が浮かんだ。おじいさんに野犬よけの柵を作った方がいい。と言われ、作ってもらったのだが、野犬なんて現れた事もなく、この柵の耐久性も疑わしかった。
 やはり、この柵には不備があったか。
 家畜は馬車に繋げられている馬2頭だけなので、馬は被害に合わなかった。
 しばらくエルミーは声がでなかったのだが、ふと何かを思い出したように急に頭を起こした。
「ジル!!」
 頭の中に最悪の事態が想像された。
 『無事でいてほしい』という願いと、その最悪の事態が混ざり合ってエルミーは混乱状況でジルを探しに走った。
「ジルーー!!」
 家の中を走り回って探し、家のまわりを探したが、ジルはいなかった。
 となると、残りの可能性は・・・。
 ぼろぼろに壊された家畜小屋だった。
 そう思い立つと、エルミーは家畜小屋に走り、泣きながらジルの名を叫んだ。
「ジル!!」
 倒れた柱を何とかどけて、家畜小屋に入った。
「あぁっ!!」
 そこに、ジルは倒れていた。
 毛はむしられたかのようにボロボロで、地面に多量の血が流れ出ていた。地獄絵だった。
 目が半開きだったが、少し震えているのがわかった。虫の息だが、まだ息をしていた。
 エルミーは怖くなって、急いで母親の元に走った。
「おかーさん!!!」
 走っているエルミーにも少しわかっていた。
 もう・・・助からないんだろうと・・・。
 エルミーは母親に事情を話し、引っ張って家畜小屋に連れて行った。母親もお婆さんも顔が蒼白になった。
 だが、そこにジルの姿はなかった。ただ、無残に引きちぎられたジルの毛と、地面に広がる血痕だけがその場に残っていた。
『ピキーン』
 エルミーは何かが切れるような音を聞いた。その音を最後に他一切の音が聞こえなくなった。
 父親が出張から帰ってきたのはそれから間はなかった。

 猫は自分の終焉を見せないために姿を消すといわれている。誰にも見られない場所で自分の最期を遂げる。ジルもきっと最後の力を振り絞って、自分が死ぬべき場所へと行ったのであろう。

「エルミー。」
 リンゴの木の下で立ち上がったエルミーに声がかけられた。だが、エルミーは振り向かなかった。
 気づいたのはその人にポンと肩を叩かれた後だった。
「エルミー、そろそろ日が落ちる。冷えてくるからそろそろ家に入りな。」
 エルミーの母親だった。母親は言葉で語るだけでなく、手話という技法を使ってエルミーに話しかけた。
 時間をかけてそれを理解したエルミーは静かに頷き、母親と家の方へ向かった。
 耳が聞こえなくなってからというもの、エルミーは何か不思議な力を感じていた。
 エルミーはよく家の裏の丘へ遊びにいく。そこにはエルミーのよき話し相手がいるからだ。そこは猫の集会所とも言える場所で、いろんな猫が集ってくる。
 何故そんな事がわかるのか?
 エルミーは耳が聞こえなくなってから猫の話を聞けるようになっていた。音を失った変わりに、猫と会話できる能力を身に付けたような感じだった。
 音が消滅した空間に一人ぼっちでいるエルミーにとっては唯一の救いだったといえよう。
 次の日・・・

 エルミーは家の裏の丘へ遊びに行った。野原の長い草を掻き分け、小高い丘を登ったところにある大きな桜の木には、いつものように数匹の猫が集っていた。
「う、ぃうえあ〜。」
 エルミーは木の上にいる猫に挨拶をした。
「おぉ、エルミーかぃ。」
 三毛猫のシャムだ。シャムは慎重に桜の木を降りはじめた。そのシャムの声を聞いてか、野原からも数匹の猫が現れた。
「ワーイ、エルミーだ〜。今日は何して遊んでくれるの?」
 嬉しそうな声を上げてエルミーに駆け寄ってきたのは、数匹の仔猫だった。
 その姿を見て、エルミーはしゃがんで仔猫たちを眺めた。
 頭を撫でてやると気持ちよさそうに頭をすりよせその場に寝転がった。顎から喉のあたりを撫でると、猫独特のゴロゴロという音が発せられた。
 すると、木の陰から一匹の老猫、猫たちの長といえるリーダーが現れた。
「ふむ、ジルが亡くなってからもう一年が経つか・・・早いものだな。」
『そうだね。』
 これは、エルミーの口から発せられたものではない。確かに彼女の言葉に変わりはない。猫独特の会話方法をエルミーが用いたのだ。長く彼らと付き合う間に、このような能力も身に付けていた。
 仔猫と戯れつつ、エルミーは答えた。
「ジルは凄い奴だった。彼の野生時代は・・・。」
「あー!また、年寄りの思い出話が始まった。もう、何百万回も聞いたっての。」
 老猫のまわりにいる若い猫が毛を逆立て、「フー!」と突っ込みをいれた。
 確かにエルミーも何回か聞いた。初めて聞いたときは正直驚いた。
「もう一回言わせろ。年寄りの楽しみを奪うな。」
 ジルがこの地域に現れたのは三年前だったらしい。ふと、急に現れ、何食わぬ顔でこのあたりを散策していた。
 当然、他の猫たちは気に食わなかった。自分の縄張り内を何食わぬ顔で歩かれたら腹がたつのはあたりまえ。数匹の猫が懲らしめてやろうと挑みかかったが・・・。30秒も経たない内に全員がやられてしまった。
 その後、この地域では環境問題並の大問題になり、毎週この集会所はジル撃退作戦の会議で夜遅くまで会話が絶えなかった。
 議論は一つ。
 もちろん、どうやったらジルをこの地域から追い出せるか・・・。
 いろんな案が持ちかけられた。
「水をぶっかけてやろう。」
「集団で襲いかかろう。」
「罠にはめよう。」
「いっそ奴を私たちの仲間にしよう。」等々。
 どれもしっくりこない浅知恵で、うまくいかなそうな案しかでなかった。
 しかし、行動を起こさなければ何も始まらない。彼らはとにかく行動を起こす事にした。
 数日後・・・。

 ジルの方から集会所の方へ出向いてきた。これは、他の猫たちも驚きだった。
 おかげで、フォーメーションAをやらずにすんだ。
 ジルは何食わぬ顔でこちらに歩いてくる。そこに何もないかのように・・・。
「おい。」
 三毛猫のシャムが言い寄った。
「何だ?」
「よくも我々の縄張りを自由に歩いてくれたな。」
「だから何だ?」
「何っ!」
 シャムは毛を逆立て威嚇した。
「自由に歩いて何が悪い?」
「フー!!」
 シャムは続けて威嚇した。
「まぁ、まて、わしに考えがある。」
 そう言い、シャムの横手に現れたのは老猫のリーダーだった。
「おまえよ、何が目的でこの地を訪れた。」
「・・・。」
 ジルは暫く沈黙した。
「それはだな・・・。」
「それは!?」
 まわりの猫たちがそろって聞き耳をたてた。
「私は武力行使反対だ。だから、縄張りを歩いただけで血迷うおまえらの性根を叩きなおしにきた。」
「何っ!」
 まわりの猫たちが全員威嚇した。
「フー!」
「早速叩きなおしてやろうか?」
「う・・・。」
 猫たちは思いとどまった。今、戦闘を始めたところでまた前のようになるだけだ。
「これは、猫界の構造改革だ!」
「・・・我々に縄張りを捨てろというのか?」
「あぁ、敷地を寡占するなんてせこいと思わないか。」
「・・・。」
「全員の縄張りを共通にすればいい。」
「・・・。」
 猫たちは黙った。
「・・・そううまくはいかないものでな。」
 その言葉を発した瞬間ジルの不意をついて、一斉に襲い掛かった。
「フー!!」
 シャムは爪を出し、ジルに斬りかかった!
 シュパッ
 だが、爪は空を切った。ジルは瞬時に横へ飛び出し、シャムの体を足かせに飛び出していた。
 弾き飛ばされたシャムは草が生い茂った野原で草の音をたてて、地面に叩きつけられた。
「フン、この程度か?おとなしく私の構造改革に賛成するか?これ以上やったら、もっと痛い目にあうぞ。」
 はっきりいって、一番最初の戦闘とさして変わりなかった。次々にジルに襲い掛かったが、後に次々と倒されてしまったのだ。
 この前の会議は何の意味も果たしていなかった。
 シャムは体制を立て直してこちらに戻ってきた。が、かなりフラフラだ。あの一蹴りでシャムをこれほどまでに痛めつけるとは・・・。
 誰もが驚いた。
 それから、まわりの猫は沈黙を守り、全員の視線がジルに向けられた。
 長く対峙状態が続いた。
「・・・。」
「作戦1実行。」
 誰かがそう呟いた気がした。
 その言葉を聞いた猫たちは一斉に長く生える草むらへと姿を消した。  この意外な行動にジルは驚いたが、すぐ状況を把握した。姑息な真似をしようとしているということを。
 ジルは全神経を集中させ、奴らを探った。今、草むらの影で私の様子を見ているに違いない。そう、悟った。
 予想は当たった。急に一匹の猫が草むらから疾風の如く飛び出してきた。そして、斬りつけてきたのだ。
 ジルは体制を崩しながらも何とか避けたが、あまりにも唐突なため、毛が逆立っていた。
「・・・奴らも戦略を考えるだけの知能があったか・・・。」
 ジルは感服した。が、しかし問題はない。所詮、野良猫どもが考えるちゃちい戦略。ちょっとの技術で突破する事ができる。
 ジルは再び全神経を集中させた。ちょっとの空気の動き、かすかな音も聞き逃さないように・・・。
「カサッ」
「そこか〜!!」
 音のした方から、老猫が飛び出してきた。年老いている割には素早かった。
 ジルは完全に動きがよめていた。飛び出してきた瞬簡にジャンプし、老猫を踏みつけてやった。そして、軽く爪で背中を薙いでやった。
「ンギャ!」
 鈍い声を発した後、老猫のスピードは徐々に落ち、木の下辺りで倒れた。
「ボス!!」
 これに驚いた他の猫たちは、たまらず草むらから出てきた。
 ジルは視線を出てきた猫たちに移した。鋭い気配が迸る。
 また、対峙状況になった。
「さて、どうする?リーダーさんよ。負けを認めますか?」
 かなわない、最初から薄々わかっていたがそれを認めたくなかったのだ。我々はジルに従うしか出来なかった。
 そして、ジルは我々の仲間になった。いや、ジルが我々を仲間にしたのかもしれないな。
「ふぅ、やっと終わったか。」
 年寄りの思い出話に聞き飽きたシャムは大あくびをしていた。 『何度か聞いたけど・・・なるほどねぇ。ジルの過去にそんな事があったとは。』
 エルミーは木のあたりに座り込み、仔猫と遊びながら聞いていた。 「そうそう、ジルが野生の身を止めると言った時は、大層驚いたもんだ。」
「うわっ、まだ続くか!」
 シャムはまた毛を逆立てて「フー!」と突っ込みをいれた。
「この話はまだしてないだろ。」
「うん、聞きたい。」
 今回は前と違って、仔猫たちも興味をしめした。
 ジルと付き合うようになってから、このあたりは平和になった。前のように他の地域の猫も襲ってこなくなり、襲ってきたとしても我々とジルが服従させた。我々もあの構造改革に参加したのだ。
 正直、構造改革後の猫界規定法案の方が良いと思い始めていた。
 だが、ある日。ジルは野生の身をやめると言い出した。
 我々も驚いた。
 どうしたんだ。今までうまくやってきたじゃないか。
 と思いとどまらせようとしたが。理由を聞くとジルは・・・
「疲れたから・・・。」
 と答えた。
 その答えに納得がいかなかった我々は、ジルに講義した。その結果、ジルはもう一つの理由を語り始めた。
「この前、岬のリンゴの木の下である女の子に出会った。何か、彼女に不思議な力を感じたんだ。きっと、私は変わることが出来る。そう感じた。私の方から彼女に近づいていくと、非常に興味を示してくれた。後に彼女と彼女の母親の話を聞いていると私を飼ってもいいらしい。それで、私は飼われる事に決めたよ。」
「それが、エルミーだったわけだよね。」
 木の上で話を聞いているシャムが言った。
「そうだ。それで・・・。」
「な、な。」
 顔面蒼白の我々を見てジルは・・・
「永久に別れるわけじゃないだろ。彼女の家はすぐそこだ。また、食べ物か何か持って遊びに来るよ。おまえらも遊びに来いよな。」
「・・・本当に理由はそれだけか?」
 まだ我々はジルのことが疑わしかった。
「何を言う。それだけだ。ただ、最近食料不足だから一匹位飼い猫になって食料の供給を・・・。」
「は!?そのためにジルが犠牲になるのか!」
「大袈裟だなぁ。」
 次の日から、ジルはエルミー宅で飼われる事になった。
『・・・。ぐ。』
 エルミーは先ほどと違い、小さくなっていた。目からは輝いた雫が零れ落ちた。
「エルミー?」
 シャムが木の上から心配そうに聞いた。
「ジルの事を思い出したのか?」
 シャムは木から飛び降りてエルミーに駆け寄った。
「それから半年後・・・。」
 年寄りの思い出話はまだ続いた。
 ジルに聞いたのだが、エルミー家の人が3日程留守にするらしい。
 我々は、あの集会所に戻って来いよと提案した。だが・・・。
 我々が誘ったさだか、見てしまったのだ。山の上でうろついている野犬の姿を!
 木があまりない所だったので、肉眼でもはっきり見えた。それより、何でこんな所に野犬が!!という事に驚いていた。
 我々はあまり外をうろつかない方がいいと判断し、エルミー家の家畜小屋にいさせてもらう事になった。
 しばらくしたら野犬もいなくなるだろうと気楽に待ち続けて、ジルと仲良くやってたのだが、悲劇は起きてしまった。
 あれは、エルミー家が留守になって二日目のころだっただろうか・・・。
 夕方、我々は家畜小屋のわらの上で寝ていたのだが、外で物音がしたのに気づき目を覚ました。
 それは、最初は遠く、だんだん近づいてきた。
最初は雷鳴の音だと思った。だが、それは誤りだとすぐ気づく事ができた。
 音が近づいてくるにつれ、荒い何かの鼻息、何者かの唸り声・・・我々も流石に背筋が凍るような恐怖を覚え、咄嗟に外の様子を伺った。
 もしかしたら・・・と思っていた最悪の結果がそこにあった。
 とても大きな黒い塊が2体。この世のものとは思えない形相をした毛むくじゃらの顔、野犬がすぐそこの柵の前まで来ていた。
「はっ!!!」
 と思った時にはもう遅い。
 野犬は柵を突き破り、その中の1匹は畑を荒らしはじめ、もう一匹は猪突猛進の如くこの家畜小屋に突っ込んできたのだ。
「うわーーーー!!!」
  バキバキバキ!!!
 家畜小屋に大穴が開いた。そこに野犬がいた。
 我々と対峙状況になってしまった。
 野犬も我々がいたことに驚いたのか、少々立ち往生した。だが、すぐ体制をたてなおした。
 その瞬間、ジルが野犬の前に飛び出し「フー!」と思い切り威嚇した。だが、野犬が恐れるわけがない。
 我々はわかっていた。あんな奴に勝てるわけがないと・・・。
 ジルもそれに気づいていた筈だ。だが、その場から去ろうとはしなかった。
 そして、挙句の果てにジルは野犬に突っ込んでいったのだ。
「ジル!!!」
 野犬は手を軽く横ぶりにし、ジルの横っ腹を薙いだ。
 ジルの体はおもちゃの縫いぐるみのように易々と吹っ飛び、家畜小屋の壁に体を強くぶつけた。
 ジルは悲鳴すらあげなかった。悲鳴を上げることすら許されないほどの苦痛だったのか・・・。
「ヒィィ。」
 我々は恐怖のあまり、立ちすくんだ。
 その時、ジルが叫んだ。
「逃げろ!!!」
「な、何を言うんだ。おまえ一人残して逃げられるわけないだろ!」
「私なら大丈夫だ。スキを見て逃げるさ。」
 我々は、ジルの言うとおりに逃げる事にした。
 だが、その時はジルが逃げろといった本当の理由を知らなかった。
 知ったのはもっと後のことだった。
 我々は家畜小屋の小窓から逃げ出し、一目散にあの集会所の木の根元で息をひそめた。根元には隙間があり、洞窟のようになっていたのが幸いした。
 ジルの悲鳴が度々聞こえたが、我々は何もすることができなかった。ただ、ジルが逃げ帰ってくる事を願って待つしか出来なかった。
 半日・・・1日が過ぎた。だが、ジルは帰ってこない。
 様子を見に行こうか?と提案する猫もいたが、それもできなかった。ジルにもう一言言われていたのだ。
「しばらくは、様子を見に来るな。」と、
 東の空から朝日が昇ってきた。
 暗闇だった世界に徐々に光がさしてくる。
 エルミー家が留守にしてから3日目の朝が来た。今日、エルミーが帰ってくる。
「・・・。」
「よし、年寄りの話はこのあたりで終わろうか。」
「やけに中途半端だな。最後まで聞かせておくれよ。英雄ジルの話を。」
 仔猫たちが講義した。
 老猫はエルミーの事を見計らって話を続ける事にした。
「こっから先の話は私もしたくないんだが、いた仕方ない。」
 昼になった。昼には雲が広がり、天気が下り坂になった事を記憶している。
 そろそろエルミーも帰ってくるころだろう。
 我々は勝手に想像していた。
 昼下がり、我々は木の根元の洞窟の中でひっそりしていると、エルミーの声が聞こえてきた。無論、ジルの事を探す声・・・。
 我々も心配だった。
 ジルは無事なのだろうか・・・。
 その時であった。
 今までと比べ物にならないエルミーの悲鳴が聞こえた。
「ジル!!!」
 我々は今度ばかりは「まさか!!」と思い、洞窟を飛び出した。そして、みんなでエルミーの家へ向かった。
 野原にさしかかる位の所で、エルミーがこちらに向かって走ってきた。
「その時だったな。エルミーと我々が出会ったのは。」
 エルミーは泣いていた。新たな衝撃の事実を聞いたことにより・・・。
『うん。』
「・・・エルミー・・・。やっぱりこんな話しないほうがよかった。エルミーが可哀想だ。誰だ?聞きたいと言ったのは!?」
「あんたが話したいと言ったんだろ。」
 シャムがたまらず突っ込みをいれた。
『ジル・・・。凄かったんだな。そんな勇敢だったなんて知らなかった。』
「うむ、我々も凄い奴だと痛感させられた。」
「ああ。」
 シャムも同感した。
「ジルが・・・亡くなったという事を知らされたのはエルミーの言葉だった。」
 それも驚いたが、彼女が猫と話せる能力を持っていた事にも驚いた。  後に聞いたが、耳が聞こえないという事も・・・。
「・・・よほどショックだったんだろう。」
 シャムが言った。
「ジルが亡くなったといえど雖(いえど)も、その時から消息不明だ。エルミーがジルが倒れているところを発見して、少し目を離したらそこにジルはいなかったらしい。そうだったね?」
『うん。』
 エルミーは静かに答えた。
 ふと気づくともう月が出ていた。
「おっと、話しすぎて夜になってしまったらしい。」
「ほんとだ。」
 とシャム。
 いつもなら仔猫たちは夢の世界へ行っている時間なのに、ジルの英雄伝説に聞き入っていたのか、今日は起きていた。
「・・・エルミーよ。今日はもう遅い。そろそろ帰りたまえ。」
『・・・。』
 エルミーからの返事はなかった。
「エルミー?」
 エルミーはある一点をみつめていた。見つめながらとても驚いたような顔をしていた。
『あ、あ・・・。』
 エルミーはその見つめている方向を指差した。猫たちもつられてその方向を見た。
「!!!」
「あ!!!」
 仔猫以外の猫たちは誰もが驚いた。
 月と重なるようにして、丘の上に何者かの姿があった。暗くてよく見えなかったが、月の光がその何者かの外見だけを浮きぼらせていた。
「あ、あの姿は!!」
「間違いない。あのキリリとした肢体。あのキリリとしたしっぽ。あのクールなポーズ。あれはまさしくジルそのものだ!!!」
『ジル!!』
 すると、その姿はこちらに語りかけてきた。
『エルミー、ごめんよ。私のせいで耳が聞こえなくなってしまって。それと、挨拶もかなり遅れてしまったな。』
『ううん。ジルのせいじゃないよ。』
『私はこれから旅に出る。遠い世界にね。でも忘れないでほしい。私の事を。君たちに誓うよ。リーダー、シャム、他様々な仲間たちよ。きっと、いつかその集会所に戻ってくる。その時を気長に待っててほしい。』
 次の瞬きをした後見ると、そこにジルと思われる姿は消えていた。
「何てことだ・・・。」
「じ、ジルはここに戻ってくるだって!」
 シャムが喜びの声を上げた。
「そうだな。ジルのためにも統治監査委員の座はジルが帰ってくるまで欠番という事にしておこう。」
 集会所は今までにない賑わいをみせた。シャムと他の猫たちは喜んで木に登り始め、老猫は静かに笑みをこぼした。
 仔猫たちは英雄ジルに会える。とわくわくしていた。
 その時、エルミーはある事に気づいた。
 エルミーもその時は、まさか・・・と思い信じられなかった。でも、それは紛れもない事実だったのである。
 エルミーはジルと会話してから耳が聞こえるようになっていた。
『耳が聞こえる!』
「え!!!!」
 猫たちも驚いて視線がエルミーの方へ集中した。
 木に登った猫たちは驚いて木から滑り落ちた。
「何だって?」
『耳が聞こえるの。』
「まじかい。」
「おおお。」
「それはめでたい。いいことづくめだな。」
 猫たちも大層喜んだ。
「きっと、ジルがくれたんだよ。その贈り物は・・・。」
 シャムが打ち付けた頭を押さえながらエルミーに言った。
『うん。そうだね。』
 エルミーは今まで見せた事のないような笑顔を見せた。
 それから、エルミーと猫たちは別れ、エルミーは自宅へ帰った。猫たちは眠りにつくものもいたが、夜の世界へ飛び込むものもいた。
 ジルの構造改革のおかげで、猫たちは共同生活を始めるようになった。
 エルミーはきっと今頃、母親にこの事を報告しに行っていることだろう。
「お母さん!耳が聞こえるようになった。」
「えぇぇ!!!」
 母親も大層喜んだ。母親は神様に深く感謝した。

 エルミーは今日、音が消滅した空間から抜け出した。
 エルミーにとって、風の音、波の音、草の音、全てが久しぶりに聞く音だった。そして何より、母親の声が再び聞けた事にエルミーは幸せを感じていた。
 猫の世界でも英雄になっていたジル。エルミーもジルに感謝感激だった。
 そしてエルミーは自分の部屋の窓から夜空を眺め、こう呟いた。
「いつか帰ってきてね。ジル。」

 その時、玄関先で何かの足音が聞こえた。
「ただいま〜。」
 え!!とエルミーは思った。家にただいまーと言って帰ってくる人がお母さんとお婆ちゃん以外にいただろうか。
「聴覚障害が克服できるという薬を譲ってもらってきたぞ〜。」
 は?
「お父さん!!」
 父親が、一年の時を経て帰ってきた。なぜそんなに時間がかかったのか・・・というのはまた別のお話。

終わり


 あれから半年がたった。エルミーは裏の集会所に遊びに行っていた。
 そこでは、なんと新たな命が生まれようとしていた。
 木の根元の洞窟は分娩室と化していた。
 無論、猫の出産は誰の手も借りず、一人でする。
 それでもって、他の猫たちは外で洞窟の周りを囲んでいた。
 生まれた仔猫の姿を見ると、誰もが驚いた。毛並み、目、全てがジルそっくりだった。それで、その猫の名前はジルの名前にちなんで、「シル」と名づけられた。
「ジルが帰ってきたよ。」
 誰かがそこでそう言ったような気がした。

 完

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